高専が初めて設立されたのは、1962年(昭和37年)のことです。
戦前と戦後では大きく教育制度が異なることは、多少教育に関して興味がある人であれば知っていることだと思いますが、高専はその戦前から戦後への教育制度の変遷とは関係なく、戦後新たに生み出されたものということになります。
どうして高専が必要とされたのか、その理由を当時の状況なども踏まえて考えてみましょう。
高専設立の経緯
高専が設立される直接の原因となったのは、1961年に行われた学校教育法の改正です。
この改正により、大学や短期大学とは異なる教育制度として、新たに高等専門学校制度が創設されたのです。
どうしてこのタイミングで5年制の教育機関が設立されるに至ったのか、簡単にその当時の状況をご紹介します。
戦前の複線型教育制度の廃止
戦前に存在していた旧制専門学校は、専門的知識をもって社会で活躍する実務家を養成することを目的としていました。
今では、旧制専門学校の多くが新制大学となり、旧制大学との違いが分かりにくくなっています。
しかし、研究を行い、あるいは研究者を養成する旧制大学とは、その存在意義も目的も、まったく異なるものだったのです。
旧制専門学校で学ぶことは、旧制高等学校から旧制大学に進むルートとは別の教育ルートとして存在し、この両者は互いに交わることがないものとされていました。
実際には、旧制専門学校から旧制大学に進学するケースも存在していましたが、実際にそのように進学する人はごくわずかだったのです。
このような教育制度は、旧制大学で学ぶ人と旧制専門学校で学ぶ人との間にヒエラルキーを生み出し、旧制専門学校に進む人は差別的な取扱いを受ける原因になったといわれます。
そこで、複線型教育制度は好ましくないとして、戦後に廃止されたのです。
戦後復興期の工業化に対応する教育機関新設の動き
戦後復興期を経て、日本国内で工業化が急激に進んでくると、そのために必要な人材を求める声が産業界を中心に上がってきます。
しかし、1955年(昭和30年)の大学進学率は男子で13.1%、女子で2.4%と今とはまったく異なる状況にあったのです。
そこで、新制大学とは別の教育機関を創設する必要性が様々な形で表面化してきます。
吉田茂首相の私的諮問機関である政令改正諮問委員会は、5年制・6年制の農・工・商・教育等の職業教育に重点を置く専修大学制度の創設を答申しました。
これに対しては、当時の中央教育審議会も追随するなど、肯定的な流れが生まれます。
専科大学という名称の新しい学校制度を設立するため、学校教育法の改正案が国会に提出されましたが、結局法案化されませんでした。
なかなか法案が成立しなかったのは、戦後の民主的な教育改革の結果、戦前の複線型教育制度がようやく廃止されたのに、わずか20年もしないうちに再び複線型教育制度を始めようとすることへの反対意見です。
特に日本短期大学協会は、短期大学が新しく創設される学校制度に格下げになってしまうことを危惧し、この改正案に反発します。
高等専門学校制度の創設となる学校教育法の改正
専科大学の創設に関して多くの反発を集める結果となったため、専科大学の名称をやめ、新たに高等専門学校制度を創設し、大学とはまったく異なるものであると誰でも分かるようにしました。
また、高等専門学校の目的は研究目的ではなく専門の学芸を教授することにあることを明確にしたほか、工業分野に限定するなどの手直しを行います。
その結果、学校教育法の改正案は国会を通過し、1961年に改正された学校教育法が公布されたのです。
1962年に1期校の国立12校が開校
1961年に高等専門学校制度が成立すると、すぐにこの学校の招致に名乗りを上げる自治体が現れます。
そして、1962年に最初の入学生を迎え入れる国立高専12校が開校しました。
この時の12校を指して、1期校といいます。
1期校
函館、旭川、福島(平)、群馬、長岡、沼津、鈴鹿、明石、宇部、高松、新居浜、佐世保
また国立以外の高専も、1962年に開校しています。
・公立高専
都立航空、都立工業
・私立高専
聖橋、国際(金沢)、大阪、近畿大学(熊野)、高知
このうち高知高専は翌年に国立高専に移管しています。
2期校以降も続々と開校
1963年に開校した国立高専は、2期校と呼ばれています。
2期校
八戸、宮城、鶴岡、長野、岐阜、豊田、津山、阿南、高知、有明、大分、鹿児島
東京オリンピックが開催された1964年には3期校が開校しました。
3期校
苫小牧、一関、秋田、茨城、富山、奈良、和歌山、米子、松江、呉、久留米、都城
さらに、翌1965年には4期校が開校しました。
4期校
釧路、小山、東京、石川、福井、舞鶴、北九州
ここまでで、現存する国立工業高専47校のうち43校が開校しています。
また、この間に公立高専、私立高専も開校した学校があります。
・公立高専
1963 大阪公立大学(大阪府立)、神戸市立(神戸市立六甲)
・私立高専
1963 サレジオ(育英)
1965 桐蔭学園
1967年には商船高等学校5校が開校、電波高専も開設
1967年には、それまで国立商船高等学校であった5校が、新たに国立商船高等学校となりました。
1967 富山商船、鳥羽商船、広島商船、大島商船、弓削商船、木更津
また、国立電波高等学校の3校は、1971年に電波高等専門学校となります。
1971 仙台電波、詫間電波、熊本電波
2000年になるまでの間に行われた高専の新設は、この後3校だけとなります。
1974 徳山、八代
1991 札幌市立
2004年の沖縄高専が最後の新規設立校
高専の空白地帯となっていた沖縄県から、激しい高専の誘致が行われた結果、2004年に沖縄高専が開校します。
この沖縄高専が2022年現在、最後の新設校となっています。
少子化が叫ばれ、学生の数が減少傾向にある中でも大学の新設を認めてきたのとは違い、高専の新設はこの沖縄高専を最後に、長年行われませんでした。
高専への人気が低いことや大学進学希望者が増えていること、そして理系離れが顕著となる中で、高専の存在意義も大きく問われる時代になりつつあるといえそうです。
今後の動き
高専の歴史やこれまでの経緯を振り返ってみました。
日本の高度成長に合わせてその数を増やし、日本経済の発展に貢献する人材を多く輩出してきたといえそうです。
ただし、現在の日本は60年ほど前とは大きく状況が異なります。
今後の高専の動きについて、どのようなことが考えられるのでしょうか。
高専のスリム化
最後の高専の新設から20年近くが経過し、逆に高専のスリム化が行われようとしています。
国立高専の統廃合が2009年に行われ、「宮城・仙台電波」が仙台高専に、「富山・富山商船」が富山高専に、「高松・詫間電波」が香川高専に、「八代・熊本電波」が熊本高専になりました。
これらはいずれも、同一県内にある工業高専と電波高専・商船高専を統合する形で行われています。
またこれに先立って東京都では、2006年に都立工業・都立航空の2つの高専が都立産業技術高専となっています。
これらの統廃合では、学校の統合だけでなく定員の削減も行われており、15歳人口の減少に対応した施策と位置づけられているのです。
約20年ぶりの新設校誕生か?
そのような状況の中で、実に20年近くなかった高専の新設校が誕生するのではないかという期待があります。
徳島県で計画されている神山まるごと高専は、2023年4月に開校を予定しています。
高専の新設は、実現すれば沖縄高専以来、19年ぶりの新設となります。
さらに私立高専の新設となれば、実に1965年以来58年ぶりとなるわけです。
正式な認可が下りるまでは、まだ不透明な部分もありますが、必ずや実現するものとして、そのニュースを心待ちにしたいと思います。
なお、神山まるごと高専については、また別の機会に詳しくご紹介したいと思います。
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